2021.3/ NO2
~個人の尊重、能力の差異~https://youtu.be/Xu96fndZf0M
権利があって利益を享受して良いと言いましたが、この話には続きがあります。
子供ではないから、面白おかしく権利権利と連呼をして騒ぎ立てるお粗末な行いをする人を見ることはありませんが、勘違いをすることは想定していないのだけれども、万全を期す目的で権利についてもう少しお話をしようと思います。
神の子孫である天皇が統治をする国であった戦前の日本。
当時の明治憲法では臣民には法律の留保という制約があったと言われています。
例えば憲法に『22条・日本臣民は法律の範囲内において居住及び移転の自由を有す。25条・日本臣民は法律に定めたる場合を除くほか・・29条日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及び結社の自由を有す』と書いてあり、法律でいかようにも制限をすることができたということがあります。
今の日本国憲法によって認められた権利というものは憲法に明記されており、憲12条・この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によって保持しなければならない=先人が獲得した尊いものです。
国民同士の生活をする現代社会では我々は権利を行使するという名目で人権を前面に出すことがありますが、権利を主張したときには義務も履行しなくてはならないことがあるということは、何度も伝えています。
個人の尊重、人は幸福を追求してよいのだ(13条)人は平等である(14条)といった主張も人様には迷惑をかけないという節度、(12条権利保持、濫用禁止、責任)をもって振舞わらなければいけません。
一個の人間として尊重をされるべきものですけど、集団で就労をする生活を送っているのですから、自分の振舞(事故、言動)が如何に人様に影響を与えるかということは真摯に考えなければいけません。
集団の中で働いている同僚やその家族にも影響があったとしたときに、そこまで考えていなかったといった浅はかな抗弁だけでは真摯な謝罪には遠く及ばないかもしれないという結末を想像しておかないといけない。
それも責任だと思うわけです。
あえて最低限度の責任と言いますが、人様に迷惑をかけることは、賠償問題の他に警察に捕まるということまで考えを巡らしておかないと、こんなはずじゃなかった、そんなつもりじゃなかったという抗弁が効かないことは大人なら誰でもわかることです。
人ですから、向上をしたいと思うのは当然で、集団の中で人から認められたい、尊敬されたいと、特別な自分であることを願うことは人としてごく自然なものでもあると思うのです。
個人の尊重というところからも利益を享受すること自体を非難されるいわれはないが、集団社会にいるわけですから、内面にある思っていることを表に出すこと。
表現の仕方にも注意が必要です。
表現をしたことによる周りの影響(積極、消極規制における、明白性、合理性、厳格性、より制限的でない他の手段といった基準など)で不快な思いをするもの、事実であっても中傷する意図をもって、若しくは結果的にそうなってしまったといった事情の差があったとしても、時、場所、方法、目的、経験からの結末の予想など、如何なものか?適当であるかといった考え方。
権限ある者が言ったら国同士での争いに発展をすることだってあり得るほどに、人の受け取り方は微妙なのであるから、面白おかしく揶揄をするように伝え広める行いはどうかと思うのです。
自分も勉強中ではあるけれど、皆も言葉の表面だけを感覚するのではなく、意図、目的について、その延長線上にあるモノ、得られるものがどういったものなのかにも考えを巡らしていけたらと思います。
極論として表現の仕方が国を陥れる目的でする破壊、排除目的の暴動で内乱罪。一地方を対象にして集合をして暴行又は脅迫をしていたら騒乱罪。
名誉棄損にもなり得る。
そのような重大な結末になることもあるぐらい表現の方法は重要なのだから、内面に留めてある思っていることを発信する(表現をすること)ことには、相応の手段方法を検討しなくてはなりません。
集団社会において影響力のある人であれば、なおさらです。
とある大臣様だったか、身分相応の就学、受験をすればよいと発言をしておりましたが、発言の適否は別として法律の解釈によれば、あながち間違いではないんです。
それでも、この方のこの発言によって自分の社会的な信頼を失ってしまったことは自らが選んで蒔いた種ですよね。
記者さんに誘導をされたかもしれませんが、誰にも強要はされていないです。
自分の選択によって発言をした。
より慎重に発言をすべき時であるから、立場であるから、カンペを用意し失言が無いよう、うっかりと言葉を発しないように注意をして発言を~しなかった。選択をしなかった。
その選択をしたのは自分なのだから、その行動によって生じた結果を、責任を負うのは誰なのか?
信頼が足りず、擁護がなされない、そのような状況を選んだのは自分。
権利はあるけど、行使したことによる責任の取り方というものも検討する必要があるんだよというお話です。
人は平等だ、権利があるということを主張するときは、個人を尊重するということにも注意をしなくてはいけません。
国民主権の国民とは、みんなのことですが人は皆、違います。
多様性があるのです。みんな、思うこと感じることが違います。
趣味も違います。性格も違います。加齢によって体力にも違いが出てきます。
仕事に対する考え方も違います。自分が出来ることは、他の人にもできると思わない。
能力には差があるんです。
自分からしたら当たり前のことであっても、他の人からしたら、高い壁過ぎて挑戦をする気にもなれない。だからやらない、やれない人がいる。特定の人だけが参加をしない。
能力的にできないからといった抗弁でやらない。経験が無いんですと言ってやらない。
最初からあきらめているという状況は認めがたいことですが、当たり前にできる人と、必死になってやらなくてはついていけない人がいることの能力の差、区別はします。
個人の尊重とは、人は皆違うという発想からのものなので、差があることが前提、差があっても挑戦して享受する権利までは奪われないという人権なんです。
必死になってやらなくてはいけない理由、それは、生活環境の問題なのか、身体、障害の問題なのか、あなたはこれが得意だ、でも苦手な人もいる。
そういった自分を取り巻く環境は皆違いますから、イージーだと思っている人は、困難であると感じている人の個人としての環境、能力にも配慮をしてください。
しかしながら社会生活の中で、慈善事業をしているわけではありませんから、もちろん会社という集合体ですので、不採算であるという状況をいつまでも放っておくわけにもいきません。
集団の中で全くしないということ、挑戦をしようとしないこと、努力をしないこと、努力が足りないと思慮されるものが非難されること(信頼)は、日本という集団の中ではやむを得ないのかなとも思います。
ですが、出来ることを見つける、程度の差はあれ人の嫌がる仕事であっても率先して行うといった貢献できる方法を一緒に探すことはできます。
働き方改革によって、その働き方に差を設けるべきといった、実力社会に傾注をしていることは、給料面、福祉に充てられる権利の優先度などにも差が表れることについて認めるという解釈ができます。
PDCAサイクルという言葉もあるくらいですから、本気でやろうと思う人は、どうしたらできるのかといったことの顛末までにも考えを巡らし、自身にとって良いと思える結末に自然と、向こうからやってくるかのように実現させています。
勉強をする環境も人によって違いますから、親からの援助を一身に受けて湯水のように教育に金を使ってくれる家と決してそうではない家とでは、大きな差が発生することは誰もが想像できることですが、平等権には事実上の差異に基づく区別は差別ではないと解釈されていますから、本当に欲しい結末を自分の人生に実現させるためには、真摯に自分の思い考えを巡らせて、より良い結果につながるように振舞うこと。継続することが肝要なのではなかろうか。
家が裕福、貧しい。人付き合うがうまく、コミュニケーション能力が高い人、苦手な人。
差別ではないとされるこれらの区別や能力の差であっても、こんなの嫌だと駄々をこねて事情が変わるわけでもないですし、たった一度の人生ですから、今ある環境、与えられた条件で良い結果につながるように(良い人生に)変えられるのは自分だけなのだという強い信念、心構え。心の思い方一つ。
こうやろうとと思ったら、こうなるためにあーやろう。
あーやって駄目であったから、こうしてみる。といった。
試行錯誤をしながらも、良い結果になるように取り組むことが何より大切だと思うのですけど。
今の仕事に不満のある人もいるだろうし、こんなはずじゃない、この仕事の他にも俺にしかできないような、やりがいのある仕事があるはずだとか。
人と比べたら、不平不満は出てくるのは自然なことですけど、個人の尊重、個の多様性とを考えると、人は人、自分は自分。
差があって当たり前、得意不得意も人によって違うわけだから。
早くに仕事を終えたい人もいるでしょう。自分も早くに終えたい人でした。
昼の食事時間も走り続けて、5分でも10分でも早く帰る。
のんびりと出来る自由な時間を確保するために必死になって走っていました。
そんな人が、事務職になったんですよ。
昼休憩なんて時間を取らないで、早く終わらせて帰りたいとずーっと思ってきました。
やりたい仕事が出来なくなった自分からしたら、皆さんいいなぁって思うときありますよ。
早朝から仕事して、サラリーマン時間に帰ってくる。
普通のサラリーマンより拘束時間が多いから、給料も当然に高い。
そんな環境に居れなくなった身からすると、うらやましいなぁと思うけれど、基本、与えられた環境は変わらないし、変える努力をすべきなのは自分ですから。
前任の部長さんがミツイシ、いつも大変だろうから、今日は帰ってもいいぞって。聞いたことないですよ。おなかの病気で大変だな。給料上げといたぞ。お前だけ早く帰っていいぞ。無いですよね。
元事務職の人達が残らなかった、この会社で、三石は10年居りました。
それまでには深夜、皆で出光興産東京油槽所の単独積み込みが出来るように立ち会ってみたり、極東石油が定修だからということで、三井石油の仕事で富士石油に一時半からマーク車の積み込みの立ち合いをしたり、朝の4時に終えて、家に帰って1時間半寝て会社に行く。そんな働き方もしたけれど、だから、今がある。
不満を言って辞めていたら今はないですよね。
自分に与えられた環境をどうすれば、よりよい結末に導けるかに考えを巡らせてお仕事をしましょうよ。
集団社会の中では不平不満はつきもの。人と比べない。多様性がある。能力差がある。
その与えられた環境、能力で如何により良い結果(人生)に導くのかといった考え方。
これも人によって感じ方は違いますから、「ミツイシ、何をバカなことを言っているんだ」と思う人もいれば、「確かに事務所で残っているのは、あいつだな」と思い返すか?
強要をしても良い結果にならないことは20代で経験しています。
放任することで秩序が無秩序になって収集がつかなくなることも知っています。
それでも、事柄を説明して聞いたらわかる人間じゃないですか?
人間を、日本人を相手に話しているんです。
権利があるからこその義務、責任について今一度確認をし、人は平等であっても一個人であって個性があり、考えた方、伝わり方はみんな違う、多様性にも注目をして、個人の尊重をして人権というものを大切にしよう
決して自分本位自分の考えだけで扱うのではなくて、人の感じた方、捉え方も違うけれど、大切な気持ちで守っている自分の人権は、他人の人権も同じように大切に扱うことで理解が進むのではないのかなと思うのでした。