事故の危険性と運転者の心構え

 

自分だけは大丈夫

損害賠償と示談金、見舞金 2021.10

https://youtu.be/ieVFYtXg2Xg

 

生き物は本能に大きく作用されます。

いくら立派なことをいう人がいても、誰にも本能があります。

大概、本能は欲に直結していると言って過言ではないと思われます。

そのような事情から、決して人から褒められないこと事であっても、短絡的に行動を選択して、不本意な結末を迎えることもあろうかと思います。

ここ2年ほど、9月になると贖いの日々という冊子を皆さんにお渡ししています。

更生施設に入所されている人が執筆されたものではありますが、私たちの手元に来るまでに幾人かからの干渉があろうことから、社会的に評価がされやすい内容に修正がされている可能性もありますが、事故そのものの発生については、間違いのない事実ですから。

加害者側である入所者さんの思うところ、考えているところも描写されています。

事故惹起の理由も記載がありますが、大抵が自分本位なものの考え方に起因しています。

自分だけは大丈夫という過信は、言葉を変えれば、そもそも、事故が起きるとは考えてもいない。

認識をしていない状態。

それに対する準備も心構えも出来ていないということです。

事の顛末をいきなりの判断に任させるということになります。

自分本位な行動を選択してしまうことについて、もう少し詳細に考えてみると、危険な行動であっても、自分だけは大丈夫という、事故が起きることを想定していない振舞いであったり、常に危険と隣り合わせであるという緊張感を持つべき我々であっても、渋滞や割り込み行為にといった場面に出くわすことで、一時の心境の変化によって非常に危険な状態にもなりえることが挙げられます。

これは、職業ドライバーである我々であっても、職業運転手ではない、世の中の大半の運転をすることを生業としない人たちと、何ら変わらない危険な状態に置かれうるということに注意をしなくてはいけない。

だから、事前の準備が必要なんだと思っています。

思っていたって、いつ自分が加害する側になるかもしれない。

偉そうなことを言っていても、聖人君子ではありませんから、感情に流され、短絡的にものを考え、その結末が不本意なものであると、少し考えればわかる事であっても、目の前の楽な行動、効率の良い行動を選択してしまう。

ゼロにするのが望ましいですが、何かの拍子に選択する行動を、『ちょっと待てよ』

このまま、この行動を選択、継続すると前方不注意による追突事故になりかねない。

めったに人が通らないところであるから。

こんな時間に歩行者はいないだろうから。

いるんですよね。

深夜、早朝に近い時間で散歩をする人たち。

 

日頃、仲間同士で他愛もない談笑をすることができる環境も、事故が無く、安全に帰ってこられたから成立しているのであって、運転をしている様々な状況によっては、不意に不安全な行動を選択しかねない消息を真摯に受け止めなければ、ただいま現在のこの日常を失いかねないという結末を敢えて考えないということは職業運転手としてあまりにお粗末であると言わなくてならない。

言葉がきつく感じる人もいるかもしれませんが、自分一人が働いている職場ではないですし、家に帰れば家族や自分を思ってくれている人がいるのにも関わらず、軽率な選択をすることが、どれだけ周りに影響を与えるか、考えないということが如何に稚拙な選択であるかを認識しないと。

 

世の中に絶対ということは、そうそうないから、何があってもおかしくないという、緊張感を忘れないことは当然として、緊張感が途切れる瞬間、何かしらの干渉があったことで、情緒を乱され、軽率な行動を選択してしまう可能性があることを事前に知って、行き当たりばったりに、その時の感情で行動を選択するのではなく、今のような状況から事故が誘発されていくのだと、認識を新たにし、予防運転に努めていきたいですね。

 

今日の車社会の中では、被害者になることもあるけれど、それだけではなく、常に加害者にもなりえる可能性についても考えを持って、自分だけは大丈夫という安易な行動を選択しかねないほどに、人は本能的な、短絡的な欲求に左右されます。

日常生活を送るための欲というものは、よく考えれば思い留まれることであっても、不意に、ひょんな拍子に不本意な行動を選択してしまう。

その結果が、誰もが望まないような、とても不幸なことであっても、起きてしまう事に慣れてしまってはいけない。

割り切ってもいけない。

動物と相隔たざること五十歩百歩みたいな。

この世に生を受けて、特別な事情がないにもかかわらず、みだりに死にたいと思うだろうか?
車の運転をすることは、人や自分の命を危険にさらすことでもあるわけだから。

俺なんて、子供も独立したし、いつ死んでもいいんだといっても、やっぱり、そこは一日でも長く生きたいと思うのが本当だと思います。

運転をしているのだから、事故なんてつきものである。

誰も好きで事故を起こすことはないという人もいるけれど、その言い訳は、当事者ではない人が、事実に対する表面的な感想を言っているだけなのであって、加害をした側、被害を受けた側が、そのような、誰も好き好んで事故を起こしたわけではないのだから、寛容な気持ちで事実を受け止めてあげてよ。

いつ自分も加害者側になるかもしれないのだから、お互いさまではないか。

起きてしまったものはしょうがないよ。

そんな言い訳が通用する訳もなく、本当にそんなことを言葉に出すなんてことがあったなら、被害者感情はどのようなものか、少し考えれば、被害者さんの気持ちに近づくことはできると思うわけです。

事故を起こしてしまった。

この事故を起こしたという事実に対して、加害した自分の今後の行く末、将来を悲観して、保身のために出てきた、被害者さんのことにまで考えが及ばない状態での、『大変なことをしてしまった。』なのか?

被害にあわれた方、ご家族の皆さんのお気持ちを思っての『大変なことをしてしまった。』なのか?

非難される云われもない、大切な家族が、危険に対して無頓着である加害者によって、起こるべくして起きた事故といっても差支えの無いような、不可抗力とはかけ離れた極めて悪質な事件というのが相応しい、反省の気持ちも伺えないような、不誠実な人によって引き起こされた不幸な事故の時に加害者が思う、『大変なことをしてしまった。』は、自分の非難される気持ちを、ただ単に薄めるために、罪悪感を薄めるために間に合わせで言った、被害者感情よりも先に保身を思っての、自身の精神を安寧した状態にしたいがために時期、方法の検討が稚拙なままに、謝罪の意を表したとしても、それは本当の意味での謝罪とは大きくかけ離れ、被害者さん側も素直に受け止めることは難しいのではないでしょうか?
全く、何も行動を起こすことなく、ただ、身体の拘束と裁判によって刑罰に処せられることで、免罪符のごとき発言をするような考え方や、決して発言をしていなかったとしても、そのようなことを思い、考える人は、言葉の節々、行動、振舞いの随所に現れるものだと思っています。(だから、誠実な態度って必要)

 

人は言葉を使える生き物だから。

本心ではない言葉も言える生き物だから。

 

 

本当に、心の底から、噓偽りなく謝罪の意として言葉を発しても、裁判で厳罰に処してほしいという被害者家族からの意見陳述によって懲役10年に処すなんて言われて、量刑いっぱいの判決に対して、この罰を甘んじて受けようって真摯に向き合えるのか?

見舞金も治療費、入院代も支払ったのに、懲役10年ってなんだよ。

金返せよって。

おかしくないですか?

与えた損害に対して支払った賠償金と、苦痛に対して支払った慰謝料という金銭は謝罪に伴う一時的な金銭の支払いなのであって、示談金ではないから。

詫び代としての支払いがあっても、双方の紛争が解決していないのであれば和解があったとは言えないですよね。

一時金を支払ったから示談が成立したと安易に考えてしまうようでは、被害者に歩み寄れない。被害者感情がわからないでいるとも言えます。

縁起でもない話ですが、いつでも事故の当事者になりえる我々が、そのような場面に出くわしたときにどのような心情になりえるのか?
誠意という便利な言葉だとは思いますけど、被害者さんの前でだけ神妙な様子で項垂れただけでは、誠意は感じられないでしょう?
言葉での謝罪は当然として、自身が用意する賠償のための金銭は、人間社会の中で価値のあるものなのは、子供でも分かる。

だから世の中の謝罪の方法は、金銭賠償なんですよね。

自分の大切な人が被害にあったとき、お金で解決できないような問題であっても、金銭での賠償が認められていることから、物事に対する誠実な態度が求められます。

結局は金かよと思われる人もいるかもしれませんが、言葉では何とでも言えます。

通常の人であれば、お金を貯める、残すことはとても大変なことであると知っていますから、真摯な謝罪として、態度での謝罪も当然に必要ですが、もっと別の形で目に見えるもの。

態度の他に、誠意の現れとしての金銭というものを謝罪の形とすることも必要なのかなと思います。

弁護士じゃないんで分かりませんけど、民事裁判前判決の前に示談の成立があったことで、刑法66条の酌量減軽が成立するかといった検討になるだけで無罪放免にはならないと思うんですよ。

 

世の名の多くの人は加害者になったとき、誠意が見られない、真摯な反省がないとされて、示談になることもなく、過去の判例に基づく量刑上限いっぱいの求刑されるのを回避するために、示談を成立させるために金と時間を使います。

前回、二重の喜びの話をしましたが、不幸な事故の時には被害者をはじめ、事故を惹起した当人の他に加害者側の親族も苦しい思いをすることになります。

こうなるとわかっていたら、誰もしないんです。

でも、頭ではわかっていても、四六時中事故の予防ばかりを考えていたら、それこそノイローゼになりかねません。

何かの選択の時に、『ちょっと待てよ』『本当にこれでいいのか?』といった危険の予知、危険を感じ取る感受力を高めるために、自分に問いただす習慣を身につけられたらと思います。

集団社会に生きていいても、人が見ていないところでは、自分の都合の良い方に解釈をして生きていくことは、よくあることだと思います。

本能に逆らって、辛く厳しい道を選ぶことは難しいことだと思います。

辛く厳しい道の先に満足を得られるものがあると知っていて、敢えて選ぶ人もいますが、それも疲れる生き方なのかもしれません。

負担の少ない生活をしたいという本能に逆らって集団社会の中で『人の役に立ちたい』『貢献したい』『信頼されたい』『期待されたい』『特別な人でいたい』という優越性の追求に取り組む人もいます。

本能は必然といっても、保身のために行動が変わることもあろうかと思います。

決して高尚な思いからの行動ではなかったとしても、保身の為であっても、その行動は、集団社会の利益になり得ます。

贖いの日々にある、自分だけは大丈夫という根拠のない思い込みが、たまたま悪い方に働いたと思うのか?必然であったと思うのか。

被害者さんは、「しょうがないよね」といって許してくれるのか?

そんなところを突き詰めてみたなと思いました。